織田信雄禁制
- 所在地 前飛保町
- 所有者等 曼陀羅寺
- 種類 書状
- 指定年月日 昭和47年2月8日
織田信長は本能寺において反逆を企てた明智光秀に滅ぼされました。そこで、急遽信長の遺臣たちは清洲城にて会議を開き、善後策について相談をしました。その結果、秀吉の意向により嫡孫三法師(後の秀信)は織田家の跡目を継ぎ近江の国を、そして二男の信雄は尾張・信孝は美濃をそれぞれ領することになりました。曼陀羅寺ではこの異変に速やかに対応して、早速尾張の領主になった信雄より寺を守ってもらうための禁制を受けました。その内容は竹木伐採のこと・殺生のこと・田地違乱のこと・新しい役を課すこと・諸奉公人及び一向宗(浄土真宗をいう)の居住のことの五ケ条を禁止したものであります。
禁制 曼陀羅寺
— 伐採竹木事。
— 殺生。
— 祠堂買徳寄進田地令違乱事。
— 寺領百姓已下新儀諸役事。
— 於寺領内諸奉公人并一向宗道場居住事。
右條々任先判若違背之族可加成敗者也 仍下知如件 天正十年八月 日 織田信雄花押
信雄は天正18年(1590)北條氏征伐のため、豊臣秀吉に従って小田原に遠征しました。このときも小田原の陣内から曼陀羅寺に対し、枝柿をもらったお礼の書状を出しています。
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